マルコは割と忙しい身の上である。
その日も夜遅くまで雑務を片付けていた。隊員たちへの指示、上長への報告、総務への書類提出など、隊長としてやるべきことは多い。しかも遠征帰りとなれば尚更だ。
今日中に済ませなければならない仕事は既に終えているのだが、明日も明日で用が重なり忙しそうだったので可能な範囲でやれることをやっているうちに遅くなってしまったのだ。
気が付けば日付が変わるまであと1時間という時間になっていた。ずっと椅子に座っていたので、身体が凝っている気がする。
マルコは大きく伸びをし、肩を回しながら立ち上がった。
今まで軍の詰め所で書類仕事を行っていたのだが、いつの間にか残っている人間はマルコ一人になっていた。
さすがに遠征帰りでこの時間になってしまうと身体がきつい。
もしもこのまま身体を壊すようなことがあっては、マルコの上司であるロッシュが許してくれないだろう。
将軍職にある彼は、自身が相当忙しい身分なのにも関わらず、部下の仕事がきつい時は大変な気を使ってくれる。
マルコ以上に忙しいロッシュの手を煩わせるためにもいかない、とりあえず今日はこれで切り上げることにした。
書類を整理し、扉を閉める。夜勤の兵に挨拶し、手にしたランプの灯りを頼りに城を出た。
夕飯は城の食堂で済ませていたから、もう取らなくて良いのだが小腹が空いていた。
身体も疲れているが、一杯だけでも酒を飲みたい気分だった。
遠征明けでもあるし、少しだけ寄っていこうか。
マルコは懇意にしているいつもの酒場へと足を向けた。



扉を開けて中へ入ると、酒場特有の匂いが鼻をついた。
「いらっしゃい」
「こんばんはー」
マルコはマスターに挨拶を返しながら指定席のカウンターへと向かう。と、先客の後ろ姿を見て、あれ、と声をあげた。
「キール君じゃないか、珍しいなあ」
「あ、マルコ隊長…!」
そこに居たのは今はロッシュの秘書として働いているキールだった。
「遅くまでお疲れさまであります!」
席を立って敬礼しようとするのをマルコは慌てて止める。
「あ、ああ、気にしないで!」
ざわついている店内では余り気にする者は居ないが、いかんせん気恥ずかしい。
キールは不本意ながらも納得してくれたのか、席に留まってくれた。
「さっきも言ったけど珍しいね、キール君がこんな時間に一人でいるなんて」
「えぇ、そうですよね…」
そういうキールの肩は落ちて見える。キールが酒場にいるというのは別段珍しいことではない。彼は社交的で、仲間と酒場で飲む姿をマルコは度々目撃していた。
そんな彼が今日は一人でカウンターで座っている。目の前には空になったグラスとまだ中身が入っているグラスが一個ずつ置いてある。中々珍しい光景だ。
マルコはマスターに度数の低い酒を一杯だけ頼み、キールの横の席に座った。
「なんかあった?」
事も無げに聞いてみた。キールは泣きそうな顔をしてマルコを見ている。
「マルコ隊長」
今にも泣き出しそうな声音だ。若干呂律は回っていないが。
「ほら、僕は元情報部だから口は堅いよ?なんちゃって」
そういうと、キールは堰が切れたように泣き出してしまった。
おいおいと泣くキールの姿に周りの客たちもざわめいている。マスターの方を見ると、さっきからこの調子なんです、と苦笑を返された。
「ど、どうしたのさ本当に。とりあえずほら、水でも飲もうよ」
マルコがマスターからもらった水の入ったコップを差し出すと、キールはそれを一気に飲み干した。
そしてまた長いため息を吐いて、カウンターに突っ伏した。これは重症のようだ。
酒場のマスターはすぐにマルコの酒を用意してくれて、マルコはちびちびと飲みながら隣のキールの様子を伺った。
何だか呻いているようだ。酒を飲みすぎたんだろうか。明日の仕事は大丈夫なのか。
ぐるぐると心配が頭を巡ってるうちに、キールが急激に頭を上げた。
「マルコ隊長!」
「は、はい」
余りに勢いが凄かったので思わず敬語になってしまった。
「自分は……どうでしょうか!」
「え、えぇ?」
いきなりどうだと言われても何のことかわからない。
マルコは疑問符を浮かべてキールの顔を見た。若干目が据わっているのは気のせいか、いや、酒のせいか。
「自分はしっかりやれているでしょうか」
「ええと。何を?」
目的語がはっきりしないため、再びマルコの頭が疑問符で埋まる。
キールは言いづらそうに、しかしマルコの目を真っ直ぐと見つめて言った。
「……秘書の仕事です」
キールは将軍職に就いているロッシュの秘書官を務めている。
ロッシュの秘書官は、ロッシュが将軍職に就くことになった当初より付けるべきだという話があったのだが、当の本人がそれを頑なに拒み、また無理やり人を付けても秘書官がいない時より寧ろ効率が落ちたりと、人選は難航していた。
しかしそこでキールに役割が回ってきたのだ。
過去にロッシュと同じ部隊で、そして彼の下で働いたことのあるキールならば或いは、と、戦後首相になったラウルは画策したらしい。
かくして、ラウルの策は功を奏した。
当初は戸惑うこともあったようだが、キールも馬鹿ではない。素早く仕事を呑み込んでいき、ロッシュの秘書官としての務めを立派にこなしている。
マルコにはそう見えるのだが。
「うーん、まあ僕から見た意見だけど、ちゃんとこなせていると思うよ?勿論お世辞とかじゃなくてね」
「マルコ隊長……」
ありがとうございますとキールは鼻をぐずらせて答えたが、それでも表情は晴れない。
「ほんとどうしたのさ。ロッシュさんと、何かあったの?」
ここまでの流れを見ていると、それしか思い当たらない。
思いっきり叱られたか、他に何かあったのか。
叱られるのは隊にいた頃からもそうだったので、慣れているはずだ。
ならばやはりそれ以外の原因の方か。
マルコが考えていると、キールは首を振って言った。
「いいえ、何も無いんです。いや、何も無いから逆に怖いと言いますか。何と言うか…」
「え?」
そこでようやく、キールから詳しく話を聞き出すことができた。
今日、キールは仕事上でつまらないミスを犯してしまったらしい。提出期限を読み違えて記憶しており、それを誤ってロッシュに伝えてしまい、今朝書類に目を通していたロッシュ自身がそのことに気づいたらしい。
キールが秘書官に成り立ての頃はそういうミスでも怒られていたそうだ。
それも決して理不尽な怒りでは無く、必ずキールの方に否があり気を付けてさえいれば回避可能なミスで、寧ろ怒られることが成長に繋がっているような気がしたという。
マルコもそれは理解できた。ロッシュは部下のやる気を削ぐことのない怒り方の出来る人間だ。
ところが、である。
ここ数日で、キールは先のミスも含めて三回ほど連続でミスをしてしまった。
なのに、怒られないと。それが不安なのだという。
「でもそれは、キール君がその、最近の仕事で疲れてるとかを考えてのことなんじゃあ…」
最近のロッシュやキールの忙しさはマルコも良く知っている。
夜遅くまで二人で残っていることなどしょっちゅうだ。
「…本当にそうでしょうか」
キールはなおも疑っている。
「単に、自分がもうその、怒る価値もない人間だと判断されたんじゃあないんでしょうか。そろそろ、慣れてきた…と言ったら軽んじてると思われるかもですが、ある程度仕事に慣れてきて、自分が使える人間かどうか見えてきた頃だと思うんです」
「そうかなあ」
「そうだと思うんです!」
だん、とカウンターに両手を付いてキールは勢い良く立ち上がった。
「でも将軍はなんだかんだでお優しい人ですから、こうやんわりと……引導を渡すつもりなんじゃないかって!」
「…引導ってそんな」
「いえっきっとそうに違いないんです!あああ、自分はもうどうすれば良いのか…」
キールは今度は勢いを失ってカウンターに崩れ落ちる。苦笑を浮かべてマルコはそれを見守っていた。
キールのその心配は全くの杞憂に過ぎないと、マルコにはその自信があった。
が、自信はあって確信もしているのだがその証拠というか根拠はない。
根拠は普段のロッシュの態度そのものだと思うが、そう言っても今のキールは疑心暗鬼に満ちたまま納得してくれないだろう。
「僕はそんなことはないと断じて思うけどなあ」
「うぅマルコ隊長…」
もはやキールの眼差しは捨てられた子犬のようである。一応もう一度そんなことはないと思う、と否定した。
「ちょっと前だけど僕がロッシュさんに、キール君どうですかって聞いたら、そうだな、随分楽になってるぜ、とか言ってたし」
「……本当ですか!」
今度は真っ直ぐな期待が込められた子犬の眼差しに変化する。
「でもそんな自分はこの間からなんかミスすることが多くて……自分が情けないです」
最後にはしくしくしくしくと泣き初めてしまった。
これはもう完全に酔っ払ってわけがわからない状態だ。マルコはそれ以上説得するのは止めて、発想を転換することにした。
「まあまあそんな時もあるよ。僕が奢るからとりあえず飲んで!キール君明日は?」
「明日は…休みをもらいました。将軍も快く承諾してくださって…、うぅこんな自分なんか」
「ま、まあとりあえずそういうことはほら考えちゃうとキリがないから!僕も付き合うからとりあえず飲もうよ、ね!」
「マルコ隊長……ありがとうございますう」
目に涙まで浮かべて感謝の言葉を述べるキールと共に、その日マルコは思わぬ深酒をすることになってしまった。
とは言ってもマルコはしっかりと次の日には影響の出ないよう、飲み方と飲み物を工夫していたのだが。



そして数日後。
マルコはロッシュの執務室に向かっていた。急ぎの書類に目を通し判を押してもらうためだ。
角を曲がりすれ違う兵士と挨拶し、あと数mで着こうかと言うところで怒声が響き渡ってきた。
マルコは思わず足を止めた。紛れもないロッシュの声だ。聞く耳を立てるに、どうやらキールがロッシュに怒られているらしい。
ほら心配いらなかったでしょ、と言いたかったが言うべき相手は執務室の中だ。
さてどうしようかと迷った。このタイミングで執務室に入るのはそれなりの勇気がいるが、マルコも急ぎの用でここへ来たのだ。
あと一時間ほどで締め切りになってしまう書類で、今すぐにロッシュの判が欲しい。
マルコは一つ息を吐いて決心すると、部屋の前に立ち、二回扉を叩いた。
「すいません、お取り込み中失礼します」
マルコが扉をそっと開けて中を覗くと、中央のロッシュの机の前にキールが敬礼して立っている。
ロッシュは明らかに苛ついているようだった。
「ああ、マルコか。どうした」
「すいません、ちょっとこの書類に判してもらいたくて」
急いで駆け寄って書類を差し出すと、乱暴な手つきで受け取られた。
「何突っ立ってんだ、早く行け!」
「はいっ!」
不機嫌さを隠さない声で再度怒鳴られたキールは部屋を飛び出して行った。
ロッシュは渡された書類に丁寧に目を通し判子を押して、マルコに返した。
「じゃあ僕はこれで。お忙しいところありがとうございました」
「いや、こっちこそすまんな。嫌なとこ見せちまって」
そこでロッシュは申し訳無さそうな声を出した。先ほどまでの苛立ちは微塵も感じられない。
「いえ、良いんですよ。たまにはそんなことだってありますし、大体訓練所ではいつもそんな感じじゃないですか」
「いつもってなあ…それもどうかと思うが」
ロッシュは苦笑いを浮かべている。
「多分、ロッシュさんの部下の人は結構皆そうですよ」
「どういう意味だ」
「怒られるのが嬉しいんですよ」
「……?どういうこった」
やはりロッシュはわかっていないのだ。それがわからないからこそ、より慕われる原因でもあるのだろう。
「わからなくても良いと思いますよ」
「はあ?なんだそりゃ」
ロッシュは眉を顰めたままだが、マルコはそのまま立ち去ることにした。
「じゃあ僕はこれで失礼します」
「おい、マルコ!」
来た時と同じようにそっと扉を閉めて、マルコは安堵のため息を漏らした。
もう大丈夫だ。
キールは自信を取り戻し、より一層仕事に対して一生懸命に取り組むだろう。
先ほど一瞬だけ聞いたキールの声は怒られて落ち込んでいるものなどでは全くなく、その逆だった。
なんと嬉しそうな返事だったことか。
杞憂は杞憂になってからこそ、あれは杞憂だったと言えるのだ。
マルコは書類を提出するため、小走りで先を急いだ。



平上作
2012.03.17 掲載

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