その出来事がアリステルの関係者たちの知るところになったのは一瞬であった。
「…………」
ここはロッシュとソニアの新居。アリステル中心部に程良く近い、閑静な住宅街にある。
その寝室で、ロッシュは低くうなり声をあげるのが精一杯だった。
何人もの人間を戦場で薙ぎ倒してきたその身体は、今は病魔に蝕まれている。
季節の流行り風邪にやられてしまったのだ。
寝込むほどの風邪など、引いたのはいつぶりだったか。恐らく十年以上前だろう、まだほんの子供のときだ。
一昨日くらいに寒気を感じたと思ったら、熱が出て身体が言うことを聞かなくなるまで一瞬だった。
すぐさま自宅療養命令が出て(しかも上司と妻と、両方からだ)今日が三日目。
未だ熱は下がらない。
それはまだいい。いや、頭痛がひどいし、決して良くは無いのだろうが。
ともかく、それはいいのだが――――
「将軍、大丈夫ですか!」
「……ぅぅ」
何が困るかというと、俗に言う『慰問客たち』だった。
上司である首相がそのような命令を出してしまったのだから、広まるのは当然のことではあるのだが。
ここまで大げさになっているとは思っていなかった。
「将軍が三日も熱が下がらないなんて…信じられないっすよ、何か悪いものにでも憑かれてるんじゃ…お化けとか!」
「馬鹿!隊長にお化けが取り憑くわけないだろ!」
「馬鹿はどっちだ、隊長は今は将軍だ!」
「とりあえず俺だったら、将軍と違ってそこまで激務じゃないですから、俺に風邪をうつして良くなってください!一週間くらい里帰りしてたって誰にも気づかれないくらいですから!」
「うちの母親がコルネ村から野菜取り寄せてくれたんで、奥様に渡しておきましたから!首に巻くといいらしいですよ!」
などなど、口々に好き勝手なことを言っているのは元部下たちだ。
大学に通っているはずのキールが耳ざとく噂(というか事実だが)を聞きつけ、元の仲間たちに声をかけて押しかけてきた。
その気持ちはロッシュにとっても嬉しいものでもあるのだが――見舞いに来るときは相手方の迷惑にならないよう、少人数で来るのが定石だということを知らなかったらしい。
風邪で喉もやられてしまったので声を荒げることもできず、しゃがれた声で喋ったところで誰も聞いてはくれない。
ロッシュは頭の上に載せられたタオルの裏表をひっくり返した。
「あ、タオル変えますか?」
「…いや、いい。それより」
ロッシュは横目で元部下達に視線を移し、
「あいつら…どうにかしてくれ。うるさくてかなわん」
「すみません、ご迷惑でしたか…?」
心底悪いことをしてしまったかのような表情でキールに言われてしまうと、ロッシュもそれ以上は強く言えなくなってしまう。
「もうちっと声を抑えてくれりゃいいんだが…頭痛ぇんだよ」
「はっわかりました、すいません気がつかなくて…!」
すぐさまキールは仲間たちにロッシュの言葉を伝えた。
その話し方はかつて軍に所属していたときと同じで、つまり。全員に聞こえるよう声量ではきはきと。
(だから頭に響くんだって…)
ロッシュは知らないうちにこめかみを押さえた。
そのとき、さらに見知った顔が二つ三つ、廊下から顔を覗かせた。
「ロッシュさん、大丈夫ですか?」
レイニーとマルコ、それとストックだった。
しかしこちらが先手を打つ前に先にキールが声をかけていた。
「あっレイニーさんにマルコさんにストックさんではないですか!」
「キール君たちも来てたんだ」
「はい!」
笑顔ではきはきしているキールは女性にも男性にも好まれる話し方ができる。
それは良いのだが、ロッシュはまたうんざりした。
見舞ってくれるのは大変うれしいことなのだが…自分たちにも風邪がうつるかもしれない、という心配はしないのだろうか。
「ロッシュさん、お加減はどうなんですか?」
マルコが心配そうに聞いてきた。
「まだ熱が下がらねえんだ」
「声も随分ヒドイですね…」
「昨日とかよりは良くなってはいるんだがな…あとは頭が痛くてな」
「頭痛もですか」
むぅ、とマルコは腕組みをして思案顔になった。
「まあでも、ソニアさんが見てくれてるだから、大丈夫だと思いますが」
「まあな」
そこには揺るぎ無い信頼がある。
軍医であるソニアに処方してもらった薬も飲んでいるし、明日くらいには良くなると勝手に思っているのだが。
そんな風に軽く考えていたら、ソニアに怒られた。もう少し病人としての自覚を持って、自分の身体を労って云々と。
さらに言えば、先ほどから壁に寄りかかりながら無表情でこちらを睨みつけている(ように見える)ストックにも怒られるだろう。
もちろんわざと隠していたわけではないのだが、ここまで長引くとも思っておらず。
(ありゃ完全に怒ってんな…)
ロッシュ自身も周りから心配性すぎると言われるが、自分の周りも相当心配性だと思う。
無理などしていないと言っても、誰も本気にしてくれないのだ。信用されているのかされていないのか、たまにわからなくなることさえある。
大事にされていることは確かなのだが。
とりあえず目を閉じ人の話し声を頭から追い出して休もうとしていると、「あっ」というレイニーの声が響いた。
それから続いて、誰かの「首相!」という声にロッシュはぎょっとして目を開けた。
見ると、先ほどレイニー達が顔を出したその場所に紛れもない上司の顔があった。
「やぁ。何だか賑やかだね」
「首相!」
ラウルは笑みを浮かべ、軽く手を振りながら部屋へと入ってきた。
現在もまだ軍に籍を置く者はもちろん、キールを始め軍を抜けた者すら、軍式の挨拶で首相を出迎えた。
ロッシュもそれにならおうとして身体を起こしかけたが、ラウルに止められた。
「病人なんだから楽にしてておくれよ」
「すいません…」
ラウルの言葉に甘えることにして、ロッシュは再び寝台に潜り込んだ。
「具合はどうなんだい?」
先ほどマルコに対してしたのと同じ説明をしても、ラウルの調子は変わらなかった。
「ま、たまの休みだと思ってゆっくり休めばいいよ」
「…そうさせてもらいます」
「そのかわり」
ラウルは意地の悪そうな表情をして、
「戻ってきたら…君の机の上が大変なことになってるかもしれないけどね」
「……できるだけ早く戻ります」
己の机の上が書類で埋まっている様子が容易に想像できたロッシュが苦々しくそう言うと、冗談だよ、半分はほんとかもしれないけど、とラウルは冗談になっていないことを言った。
「じゃ、僕はそろそろお暇しようかな」
「すいません、茶の一つも出せないで」
「気にしないでくれ、僕も接待されたくて出てきたわけじゃないし。ほんの気分転換?ってやつだよ」
無礼を詫びるとそこでもラウルは意に介した様子もなく、へらへらと笑った。
「じゃ」
またね、と言って部屋を出ようとした途端、首相!と良く通った声が聞こえると、ラウルの動きが面白いように止まった。
ぎぎぎ、と聞こえもしない音と共にラウルが振り返ると、そこには彼の秘書の姿があった。
「こんなとこにいらっしゃったんですか…!」
「いや、これはほら、大事な部下が病で伏せってるって言ったら上司としては見舞うべきかなあと」
「それは確かに大事なことです。が、大事な会議をすっぽかしてまでするべきことではありません。首相がいらっしゃらないおかげで、会議がいつまでも始められないのですよ」
「だってその会議、僕がいたって何もすることないじゃないか」
「いるだけの役割でも、きちんとした仕事です」
そこで秘書はラウルの腕をがしっと捕まえた。
「ロッシュ将軍」
「は、はい…?」
「ゆっくりお休みになってください」
「…ありがとうございます」
「でも…しょっちゅうこんなことがあっては困ります。首相の逃げる口実になってしまいますので」
「はぁ……すいません」
「逃げるって…ひどいなあ。僕は本当に部下を心配して」
「事実とは異なると胸を張って言えますか」
「言えるよ」
「じゃあ私の目をきっちり見つめて言ってもらえますか」
「すいません…」
その勢いに気後れしたロッシュは、ラウルの代わりに謝ることしかできなかった。
「それでは失礼します。くれぐれもお大事になさってください」
さ、帰りますよ、と秘書はぐいぐいとラウルを引っ張って去って行った。
しばらく呆気に取られていた一同だったが、レイニーがまず最初に正気を取り戻した。
「そ、それにしても、ソニアさんがここまで顔を見せないのって何か珍しい気がする。あたしちょっと様子見てくる!」
「あ、僕も行くよ!」
二人はぱたぱたと慌ただしく部屋を出ていった。
それにつられてか、キールと仲間達もそれぞれ動き出した。
「将軍、自分たちもこれで帰りますね。余り長居してもご迷惑になりますから!すいません、お騒がせしてしまって」
「…気にすんな。見舞いありがとな」
「いえ、早く良くなってくださいね」
最後に全員で最敬礼をしてからキール達も部屋から出て行き、これで部屋に残ったのはロッシュとストックだけになった。
「……」
「……」
お互いなんと声をかけたらいいのかわからずに、二人はしばらく無言のままだった。
それでもロッシュがこめかみの辺りを押さえていると、ストックが心配そうに話しかけてきた。
「……頭が痛むのか」
「あぁ、ちっとな」
「……」
自分が風邪を引いてるわけではないのに、無表情ながらどこか辛そうな顔をするストックにロッシュは申し訳なくなり、ついこんな言葉が出てしまった。
「すまん」
「……何がだ」
「いや、おまえにも無駄に心配させて」
「無駄なんかじゃない」
ストックは少し語気を強めて言った。
「無駄だって判断しているのはおまえの方だ。俺は無駄だなんて思ったことはない」
「……そうか」
この無表情ながらとても仲間思いなストックは、仲間の調子が悪かったり変だったりすることにとても敏感に反応し心配して、その種を取り除くことに労力を厭わない。
過去何度もストックに助けられたことのあるロッシュはそれがわかっているからこそ、つい謝ってしまうのだが。
それにしても。
「あー頭痛ぇ……」
「……大丈夫か?」
先ほどよりもなんだか頭痛が強くなってきている気がして、ロッシュは呻いた。
「……ソニア呼んでくるか」
「いや、いい。多分――の面倒を見てるだろうからな」
この間産まれたばかりの子供の名を言って、ロッシュは知らずに微笑んだ。
さすがに乳児に風邪をうつしてはまずいので、今は完全隔離生活中だが。
「その代わり、これ冷やして持ってきてくれねえか」
「……わかった」
ロッシュは頭に乗せていたタオルをストックに託した。
---
ストックがタオルを持って部屋を出ると、すぐに赤子の泣き声とレイニーらしき女性の声とそれを宥めるようなマルコの声が聞こえてきた。
「レイニー!そ、そんな怖い顔して赤ちゃんを睨みつけてどうするのさ!」
「だ、だって泣き止まないんだもん!」
二人の声のする方に歩いて行くと、そこは居間で、二人はロッシュとソニアの赤ちゃん相手に悪戦苦闘していた。
「あ、ストック!」
「……大変そうだな」
「ちっとも泣き止まないんだよ…」
おろおろとするレイニーに対して、マルコは落ち着いたもので。
「レイニーは乱暴すぎるんだって!」
「乱暴なんかしてないよ!」
「そうじゃなくて、こうしないと」
マルコはレイニーから赤ちゃんを受け取ると、その目をのぞき込んで変な顔をした。
変な顔をした、といっても元より童顔(実年齢もまだ若いが)のマルコがやると、愛嬌のある顔つきになる。
赤子は少し泣き止んでマルコの方を見た。
掴みはOKのようだ。
「ストックもやってみる?」
「いや…俺はいい。それよりソニアはどこにいる?」
「あ、ソニアさんなら台所だよー」
ストックはとりあえず二人をそのままにして
台所に向かった。
台所では、ソニアが一人で忙しく働いていた。見れば遅めの昼ご飯を用意しているようだ。
「ソニア」
「あら、ストック」
ソニアは入ってきたストックに気がつくと、手を止めて近くへとやってきた。
「ロッシュがまだ頭痛いと呻いてたぞ。それとこのタオル冷やしてくれないか、俺が持っていく」
「そうですか…もう少しちゃんと冷やした方がいいのかもしれませんね。すいませんがストックお願いできますか?」
ソニアはてきぱきとタオルを冷やし、氷嚢を準備すると、ストックに持たせた。
「あ、遅くなってしまいましたけど、昼食くらいストックも一緒に食べてってくださいね。レイニーちゃんとマルコ君の分もありますから」
「……ありがとう」
「首相には申し訳ないことをしてしまいましたが」
当然のことだが、ラウルを中に入れたのはソニアだった。その際、気使いは一切無用と言われたらしい。
「そう言ったのがラウルならあまり気にしないだろう」
「…それもそうですね、ひどい話ですけど」
ソニアが笑って、ストックも少し表情を緩めた。
そこで、ストックはレイニーとマルコが赤子のことで苦戦していることを思い出した。
「そういやレイニーとマルコが赤子のことで苦戦してたぞ」
「あら、ほんとですか」
あの子は中々くせ者なんですよね、とけらけらと笑いながら話すソニアは本当に幸せそうで。
ストックはそのまま、タオルと氷嚢を持ってロッシュの待つ寝室へと戻った。
ストックが部屋に戻ると、先ほどまでは確かに起きていたロッシュが寝息を立てていた。
(疲れたんだろう)
自分も訪問客側なので何も言えないのだが、体調が悪いときに客の相手をするのはかなりしんどかったのだろう。
ストックがロッシュの額にタオルと氷嚢を乗せてもロッシュは微動だにせず、眠りこけている。
口で浅く呼吸をし、眠るロッシュの姿は普段の姿を知ってるものとしてはなんとも言えないものがある。
(……)
ストックはそこでふと、ロッシュの右手が掛け布団からはみ出ていることに気づいた。
それを布団の中に戻してやろうとしてーーーロッシュの右手を掴んだ。
---
ロッシュが次に目を覚ますと、ソニアが花瓶に花を活けているところだった。
「あ、起こしてしまいましたか」
「いや、大丈夫だ」
ソニアが手を止めて、寝台の傍にやってきた。
「どうですか、頭痛は治まりましたか」
「さっきよりは良いな」
部屋に掛かっている時計を見ると、時刻はまだ夕方前だ。
一眠りしただけだが、先ほどよりは確実によくなっている気がする。
「汗かきました?」
「ん、そうだな」
額に手をやると、手が汗で濡れた。
「じゃあ着替え持ってきますね。身体も拭いたら熱を計って。ちょっと中途半端な時間ですけど、食べられるだけご飯食べてください」
「わかった。……悪いな、色々」
「何言ってるんですか」
そんなこと言うなら、ちゃんと休んで早くよくなってください、と。
もう休んでるぜ、と言ったら、もっと休んでください、と言われてしまった。
「あ、ソニア」
「はい?」
「いつくらいからここにいた?」
「さっき入ってきたばかりですよ。何かありました?」
「いや、大したことじゃねえんだ」
夢うつつな状態で眠っていたから、それが夢だったのか現実だったのかよくわからないのだが、眠っている時なんだか強い力を右手に感じたのだ。
ソニアが手でも握ってくれてたのかと思ったのだが、さっき来たばかりだとすればきっと違うだろう。
「そういや、あいつらももう帰ったのか」
「あぁ、ストックたちですか?」
ソニアはくすくす笑いながら、まだ居ますよと教えてくれた。
「3人で赤ちゃんの面倒を見てくれてます。さっきなんかストックの顔みたらあの子号泣しちゃって」
「……仏頂面だからなあ、あいつ」
「あなたも人の子の前だったら号泣させる側ですよ」
「……おい」
手厳しいことを言う妻は笑いながら今すぐ着替え用意しますから、と足早に部屋を出ていった。
それを見送ったロッシュは誰かが握っていたらしい己の右手を何となく見つめながら、ソニアが着替えを持ってくるのを待った。
平上作
2011.05.05 初出
RHTOP / TOP