その日はやたらと立て込んでいた。
ロッシュは前々日に遠征先であるシグナスから帰って来たばかりだった。休みを取る暇もなく、書類仕事の山が待っていた。特に今回はシグナスとの合同軍事演習から始まり、緊急で魔物退治の依頼までこなすことになってしまい、報告書の量が単純に二倍になった。
しかし特別というほどでもない。良くあることではないがたまにはあることで、これ以上の仕事が溜まっていることもある。だから、その日もロッシュは黙々と苦手な書類仕事をこなしていた。
時計代わりの夕方の鐘がなったことにもロッシュは気づかなかった。
「将軍! その……大変申し訳ないのですが」
秘書官のキールに消え入りそうな声で話しかけられて、ロッシュはその手を漸く止めた。
「ああ、すまん。どうした」
「すみません、朝も申し上げたんですが今日はこれで上がらせて頂きます。それと明日も……」
そこでロッシュは思い出した。そういえば、今朝キールが今と同じ感じで申し訳なさそうに今日は定時で上がり、明日は午前中休みたい、と言っていた。ロッシュは声には出さずに自分自身に舌打ちをした。キールには気を使わせてしまった。
「おふくろさんが調子悪いんだったか。気にするな、そっちの方が大事だ。こっちは俺だけでも何とかなる」
「うぅ本当にすみません……戻ってきたら倍働きますから!」
そう言って、キールはばたばたと足音を立てて部屋から出て行った。ロッシュはキールの母親が軽症であることを祈りつつ、また机へと向かった。
次の来客があったのはそれから三十分ほどしてからだった。
「ロッシュ」
入ってきたのは親友であり戦友でもあるストックだ。アリステルの内務官兼外交官として働いている彼もロッシュに負けないほど忙しい。
「おう」
「生きてたか」
ストックの顔には心なしか、安心したような表情が浮かんでいる。ロッシュも表情を緩め、笑って言った。
「当たり前だ。今帰りか」
ストックは既に上着を羽織り、帰り支度をしているように見えたのでそう言ったが、どうやら当たっていたらしい。
「ああ。今日はレイニーから早く帰るように言われていたから、仕事も早く終わらせた」
「ん? 何かあったのか」
「いや。今日は記念日だそうだ」
そこでロッシュはにやっと笑った。ロッシュもレイニーのことは良く知っている。そのレイニーはそういう節々の出来事を大事にするタイプに見えた。
「どの記念日だ」
「どのって何がだ」
「婚約記念日か、結婚記念日か、それともおまえが戻ってきた日か。いやあ、おまえらはいつでも熱くて羨ましい限りだぜ」
「万年新婚夫婦に言われたくはない」
ロッシュはそうからかって見せたものの、ロッシュとその妻ソニアの仲の良さはもはや国中で誰も知らない者などいないくらい有名な話だ。
「まあともかく、さっさと帰ってやれよ」
「ああ。そのつもりだ。お先に」
「お疲れさん」
ロッシュにとっては聞き慣れた足音を立てながら、ストックは足早に部屋を出て行った。
それから一時間ほどが経過して、ロッシュは腰を上げた。作業自体はまだまだ残っているが、出来上がった書類をラウルにまで届けるつもりだった。
届けるのは明日でも良かったが、小腹が空いて来た。ついでに食堂に寄って、軽食をもらいたい。
ラウルのいる執務室まで大股で城内を歩く。途中何度か兵士たちとすれ違い、挨拶をされた。これから夜警に入る者もいるし、逆にこれから宿舎に帰る者たちもいる。帰る者たちは揃ってロッシュに申し訳なさそうな顔をした。そんなことは気にするなと背中を叩いてやって、そうこうしているうちにラウルの執務室前に着いた。
こんこんと二度扉を叩き、ラウル首相いらっしゃいますか、と聞く。
「どうぞ」
中から返事が聞こえてから、失礼します、と言ってロッシュはラウルの執務室の中に入った。重厚な扉を抜けた先には、ラウルとその秘書官が鞄を手に持って立っていた。
「首相、ひょっとしてもうお帰りのところでしたか」
「ああうん、でも君が来たなら、僕は遅れて」
「駄目です」
秘書官はぴしゃりと言い放った。
「主役がいなくてどうするんですか!」
「今日何かこの後あるんですか」
「ええ、首相の慰労会です」
「要するにただの飲み会だよね……」
ラウルはとても行きたくなさそうな表情をしたが、全く聞こえてない振りをして秘書官はロッシュに誤った。
「ロッシュ将軍、お呼びしなくて申し訳ありません……その、内務に関わってる者で決めてしまって」
「気にしないでください、俺は仕事溜めちまってるんで結局行けませんでしょうし」
「ねえ、聞いたかい今の」
ラウルは大げさに秘書官に向かって両手を上げた。
「ロッシュは本当に素晴らしいよね。こんなに夜遅くまで残って、仕事をやってくれているんだよ。見習って僕も今から仕事をすべきなんじゃないのかな」
「それは明日からお願いします。五日後にはグランオルグとセレスティアの高官がアリステルにいらっしゃるはずです。明日はその準備で、嫌でも仕事はたくさんありますから。そのための憂さ晴らしでもあるんですから、さあ行きましょう」
「というわけらしいよロッシュ……すまないが、書類は明日でもいいかな。今日中に必要なわけではないよね」
「もちろんです」
ロッシュが夜遅い時間にラウルの執務室に書類を届けるのは初めてではない。今までに何度もあったことだ。そしてそれが大体緊急性のないものであることはラウルも知っている。一番急いだもので翌日の昼までに出さなければならないものだった。ロッシュは書類仕事は苦手だが、締め切りを守らないことはほとんどない。
ラウルの机の上の書類箱に持ってきた書類を入れて、ロッシュは先に廊下に出た。続いて秘書官、ラウルの順で執務室を後にする。ラウルが鍵を掛けると、それでは、と手短に言って秘書官はラウルを連れて行ってしまった。その後ろ姿を見送ってから、ロッシュは食堂を目指すことにした。
食堂へと通じる広間に出て、大股で歩いていく。人はいない。ロッシュの足音だけがこつこつと響いている。が、食堂の方から漏れてくる明かりが今日は見えない。アリステルの食堂は夜勤とその交代の兵士のために、日付が変わる前くらいまではやっているのだが、その光が今日は見えなかった。城内はランプで照らされているので暗くて見づらいことはないが、どうやら食堂は閉まっているようだ。何かあったのかと食堂の前に立ったロッシュの目に、一枚の紙が飛び込んできた。
『本日、店内設備の点検のため、夕刻にて営業終了いたします。』
告知日は一週間ほど前になっており、丁度ロッシュが居なかった頃だ。帰ってきてから何度も食堂を利用したが、気づかなかったらしい。そうとあっては仕方ない。早く仕事を片付けて帰るまでである。
踵を返したロッシュはそこで見知った顔を見つけた。
「おぉ、マルコか」
「将軍」
マルコは手に書類を抱えている。マルコもロッシュほどではないにせよ、毎日夜遅くまで残って作業をしている。もっとも今のアリステル城で働いている人間に忙しくない人間などいないのだが。
「ひょっとしてこの張り紙ご存知なかったんですか」
「毎日通ってるのにめっきり気づかなくてな」
「僕はこれを総務へ届けたら終わりなので、いつもの酒場に行って何かもらってきましょうか」
いつもの酒場というのは、アリステル兵士御用達の城近くの酒場のことで、遠征から帰ってきた部下たちを労うためなどにロッシュも良く利用している。
「いやいい。俺もさっさと終わらせて帰るさ」
ぶんぶんと手を振るロッシュに、マルコはにんまりと笑った。
「そうですね。その方がソニアさんも喜びますよ」
「だと良いんだがな」
「たまには早く帰ってあげてくださいよ」
「できればそうしてるんだがなあ」
その言葉にマルコの表情が少し曇った。マルコが暗い表情をすると何となく落ち着きがなくなるのは気のせいだろうか。ロッシュはそんなことを思いつつ、また部下に気を使わせてしまったことに苦笑した。マルコの眉間には微かに皺が寄っている。
「すみません、僕に出来ることが少なくて……」
「何言ってんだ。ほら、総務に持って行くんだろ」
マルコはロッシュに背中を押され、僕にできることがあればなんでも言ってください、と丁寧に辞儀をしてから駆けて行った。マルコはその真面目さと丁寧さで既に十分ロッシュの役に立っている。部下に気を使わせてるようではまだまだだな、とロッシュは自分を戒めながら自身の執務室に戻り、早く帰るために再び書類と向かい合った。
そして気づけば、日付変更の鐘が鳴っていた。ロッシュはそこで今日も遅くなってしまったことを悟る。
「どうすっかな」
今日のように夜遅くなった時用にストックと共同で借りている部屋に行ってもいいのだが、どうするか。ロッシュは暫し考えてから、よし、と一息吐くとロッシュはさっと帰り支度をし、妻の待つ自分の家へ帰ることにした。何となく今日は我が家が恋しい。
城を出る時に、幾人かの兵士たちとすれ違った。夜勤が終わった者、これから交代で見張りに入る者、皆一様にロッシュに大きな声で挨拶をしてくる。その一人一人に声を掛けてやりながら、ロッシュは家路を急いだ。ソニアも幼子ももうとっくに寝ているだろう。せめて寝顔だけでも見たい。
季節は秋を過ぎ、冬になり始めた頃だ。アリステルの冬の訪れは早く、もう息が白み始めている。間もなく雪もちらつき始めるだろう。マナを遠慮なく使っていた頃は冬でも暖かかったアリステルだが今は節マナをしているため、冷えた魔導機械が周囲の気温を下げ、アリステル城付近では特に寒さが厳しくなっている。ロッシュはそれでも別に構わないが、部下や家族、友人たちが風邪を引くのは困る。魔道機械で固められているアリステル城付近の暖房対策についての話し合いも行われていて、ロッシュも警備の関係上いくつか意見を述べている。希望が叶えばいいが、アリステルの国家予算は例年以上に縮小傾向だ。果たしてどうなることだろう。
ソニアには燃料を遠慮なく使えと言っているが、ソニアはマナ対策の世界的権威、中心人物だ。マナだけでなく、燃料もできる限り使おうとしない。ソニアは暖房以外の手段、例えば厚着をする、などで凌いでいるのだが、ロッシュはもう少し暖房を使っても良いのではないかと思っている。意見したところで軽々と論破されてしまうので、何も言い返せないのだが。
そんなことを考えている内に我が家の門に辿り着いた。そっと内鍵を開け、ロッシュは音を立てずに玄関に入った。重い軍靴を脱ぎ、室内靴に履き変える。夜帰宅した時のために用意されている明かりを持って、真っ直ぐ二階の寝室へ向かった。ソニアと子供はそこで眠っているはずだ。
玄関に入る時以上にそっと扉を開ける。明かりは扉の近くの横に置いた。持って入ると明るすぎて目を覚ましてしまう可能性がある。家族の眠りを邪魔したくはなかった。ロッシュは大柄なので、どうしても床の板が軋み音を立てる。まずは一歩二歩三歩、慎重に寝台に近づいた。子供はまだ小さいので、夫婦の寝台で三人で眠ることにしている。三人が同じ時間に布団に入れることはほとんどないのだが。
愛する幼子は顔だけを横にして部屋の入口方向を向き、静かに眠っている。ロッシュにも寝顔が良く見え、これだけで今日の疲れが取れる気がした。手を伸ばしその頬に触れたくなるが我慢した。起こしてしまっては元も子もない。
愛する妻は逆に部屋の入口とは反対の方を向いて眠っていた。こちらからは布団を被ったソニアの身体が規則正しく少し上下するのが見えるだけだ。ソニアも良く眠っている。それだけで十分だ。
ロッシュは部屋を出る時も同じように慎重に足を進めた。もっとも、寝る支度をしてロッシュが眠る際にはまた同じように部屋に入らなければならない。ソニアを起こさずに寝台に横になるためにはどうしたらいいのか考えるのは後にして、顔を洗うために一階へ降りた。洗面所でさっと顔を洗うと、用意されていた寝間着にロッシュは着替えた。このまま寝てもいいが、今になってやはり腹が空いて来た。良く考えれば夕飯を抜いたので当たり前だ。何かないか、とロッシュは台所に向かった。
さすがにこの時間には何もない、と思いきや、そこには虫避け籠を被せた皿があった。開けて見るとサンドイッチが入っていた。正確には耳を切り落としたパンとソーセージと野菜で、それぞれが別の皿に盛ってある。ソーセージは焼き目が付いており、冷たい野菜と分けたのだろう。しかも量も申し分ない。城の食堂で出されるものと大差なく、さすがはソニアだ、と笑った。
真夜中もいい所だが、ロッシュは立ったまま愛妻が用意してくれたパンに具材を挟み、サンドイッチにして貪りついた。体格だけでなく口も大きいロッシュは当然食べるのも速い。あっという間に一つを平らげ、もう一つを手に取ったところで近づいてくる気配に気づいた。
「あなた」
暗闇の中にソニアが立っていた。ロッシュは戦士だ、足音がすればもちろん気づく。
「すまん、やっぱり起こしちまってたか」
「私も軍人の端くれですからね」
「すまん」
「いいんですよ。お茶入れましょうか」
座って食べてください、とテーブルに誘導され、ロッシュは椅子に座った。明かりを付け、ソニアが湯を沸かす間ロッシュはサンドイッチには手を付けず、何となく二人は無言だった。
「どうぞ」
「おう、すまん」
ソニアの入れてくれた紅茶を飲みながら、ロッシュはサンドイッチを食べ尽くした。ソニアが食べ終わった皿を片付ける。
「お風呂はどうしますか」
「明日の朝でいい。今日は一日書類作業だったから、汗臭くはないと思うんだが」
ロッシュがどこか照れくさそうに言うと、ソニアはふふ、と笑った。そしてどちらからともなく手を取り、二人は寝室に向かった。結局ロッシュはその後すぐにシャワーを浴びた。
翌朝、いつもより早めに家を出ると、ロッシュは城門前でキールに会った。
「なんだ、随分早いじゃねえか。おふくろさんは大丈夫なのか」
「将軍! 昨日はすみませんでした。母はただの貧血だったみたいで……すぐにこっちに戻ってきました」
「もっとゆっくりしてきても良かったんだぜ」
「いえ、自分の兄弟もいっぱいおりますので」
「そういやキールおまえの兄弟構成って」
そこで言葉を切ってロッシュが欠伸をするとキールは益々恐縮した。
「ああ自分が昨日早く帰ってしまったばかりに、昨日もきっと夜遅くまで……」
「そんなんじゃ、おちおち欠伸もできねえじゃねえか」
そんなやり取りをしつつ門の中に入ると、前方にうずくまっている人影が見える。良く見ると、ラウルだった。
「首相!? 大丈夫ですか」
「君たちか」
ラウルの顔色は真っ青だ。ロッシュは昨日ラウルが飲み会に出るところを見ている。つまりこれは、
「予想が付いていると思うけどこの通り、二日酔いでね……」
呻いてラウルは下を向いた。
「キール、医療部に連れて行くぞ」
「はい!」
ロッシュとキールがラウルに肩を貸しかけたところで後ろから元凶に声を掛けられた。
「おはようございます、皆さん」
ラウルの秘書である。こちらは見ている限り、昨日より調子が良さそうなくらいだ。ロッシュは一瞬、シグナスのガーランドを思い出した。彼の王は相当な底無し沼である。この秘書官と飲みに行ったことが無いわけではないが、大酒をくらっているところを見たことはない。何となく、ガーランド王と良い勝負になる気がした。体格ではガーランド王の方に分があるだろうが、消化能力では目の前の秘書官の底は知れない。
「出た……」
ラウルは秘書官を見るなり怯えた顔をし、もう飲めないよ、と言った。
「何言ってるんですか。まだ酔っ払ってらっしゃるんですか、朝なのに。今日も一日働いてもらわなきゃ困ります」
「えーっと、首相は調子が悪そうなので、一応医療部に連れていこうかと思ってたんですが」
キールが律儀にも見ればわかるような事情を一応説明する。
「ありがとうございます。ですがこの人のこれはただのポーズですので、心配要りません。いつものことですから」
ロッシュにはラウルの顔色が嘘を吐いているようには見えなかったが、そうぴしゃりと言われてしまうと何も言えなくなった。
「僕だって人間だよ……さすがに今日の午前中は無理だ。早退する。午後になったら医療部から行くから」
「居るだけで仕事ができるんですから、とりあえず寝るにしてもご自分の椅子に座られてからにしてください。それでは皆さんお先に失礼します。首相行きますよ」
ラウルの抗議の声を無視して、秘書官はラウルの腕を強引に引いて立ち上がらせると、連れて行ってしまった。ロッシュはその背中を呆然と見送った。
しかし横のキールは何やらきらきらとした眼差しで二人の後ろ姿を見つめている。
「格好良いなあ。自分もいつかはああいう風になれるでしょうか。でも自分はまだ将軍より全然お酒も飲めませんし……」
「ならんで良い」
鼻息を荒くする部下を嗜めつつ、ロッシュは本当にキールが自分より飲める体質でなくて良かった、と思うのだった。
平上作
2014.9.30 掲載
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