大陸を巻き込んだ戦いから数年が過ぎた。長引く戦争で疲弊した国々も、各々の力で徐々にあるべき姿を取り戻していく。アリステルは戦争の傷痕を深く残していた国の一つだが、戦争後に国の元首となったラウルとその周りの者の働きで、国民の暮らし向きは確実に良くなっていった。
 ノアを失った傷を癒えない者はまだいたが、人々もゆっくりと立ち上がっている。最初の方は諍いも少なくなかった各国との交流もまた、盛んになっていた。そう、人々は段々と余裕を持つことができたのだ。
 そしてその余裕は人々に余計なことを考えさせる時間を与える。それはアリステル国内の誰にとっても同じであった。



 ある日、ロッシュは顔をがしゃがしゃと洗っていた。毎朝の洗顔は当たり前だが欠かせない。顔のべたつきを取るのもそうだが(それが一瞬にすぎないことであろうとも)冷たい水を顔にかければ頭もしゃっきりとし、気合が入るというものだ。
 以前まではそこで終わりだったが、最近のロッシュには気になることがある。特に何があったというわけではない。きっかけと呼ぶようなものは何もない。
 ふとある日、気づいてしまったのだ。第三者から見れば、気のせいだ、と笑われるようなことかもしれない。だがロッシュにはそうは思えなかった。それ以来、何度も顔を洗ってはため息を吐く日々だ。
 ロッシュの目には明らかだったのだ、その変化が。楽観視などできるわけがなかった。何故ならば――
「あなた、ご飯できましたよ」
 居間から掛けられた妻の言葉でロッシュは我に返る。ああ、今行く、と返事をし、洗面所から家族の揃う居間に向かう。家族には決して言えない悩みというのは結構辛いものだ、しかもどうしようもない加齢によるものならば特に。
 寄る年波には勝てないよ。
 いつだったかの首相の言葉が頭を過ぎったが、ロッシュは首を振って追い払った。



 その日のことだ。
「将軍、どうしたんですか? 何か元気がないようですけど」
 小さな異変を察知したのは秘書のキールだ。ロッシュのことを毎日見ているが故に、本人さえ気づかない変化にも良く気づく。
「ん? ああいや、大したことねえよ」
 ロッシュは苦笑して応じてやる。しかしキールは心配顔を引っ込めない。
「将軍! いつも言ってるじゃないですか、将軍の大したことねえよは実際に大したことなかったことがないんだって」
「……意味が良くからんが」
「わかってください! そもそも将軍は隠しごとが多すぎです。何かあった時に遅いんですからね、それともやはり自分では力不足でありますか」
「い、いやちょっと落ち着けって」
 キールの顔はもはや泣き顔になっている。大事になってきているようでロッシュは少し慌てた。
「これが落ち着いていられますか! もし将軍に何かあったら自分は」
「だから落ち着けって本当に大したことじゃ」
「どうした、騒がしいな」
 そこに二人の訪問者が入ってきた。執務室の扉が開けっ放しだったので、そのまま入ってきたのだろう。
「キール君どうしたのそんな大きな声だして」
「ストック、それにマルコか」
 二人は手に書類を抱えていた。それぞれがロッシュに用があり、執務室に向かっている最中に鉢合わせたらしい。
「ストックさん、マルコさん、聞いてくださいよー」
 キールの泣きそうな声はまだ続く。
「将軍が隠しごとをしているんです」
「隠しごと?」
「誰にだって言いたくないことの一つや二つあるだろうが」
「そ、それはそうかも知れませんが! 将軍の場合、お一人で抱えてしまう傾向がありますから心配なんです」
「……確かにそうだな」
「おい、ストック」
 ストックは素知らぬ顔をしてロッシュを問い詰める。
「ロッシュ、そんなに隠したいことなのか」
「改まって言われるとなあ……」
「えーっと僕は単に書類に判をもらいに来ただけですので、とりあえず判を」
 何やらややこしい事態になってきたことにマルコは危機感を覚えたのか。さっさと用事を済ませてその場を立ち去ろうとしたが、叶わなかった。マルコが言い終える前にロッシュは話し出す。
「……いや、わかった。幸いおまえらしかいねえことだしな」
 キールの唾を飲み下す音が聞こえてくるようだ。
「笑うなよ」
 ロッシュはそう言って、一同の顔を見回した。皆ロッシュの顔を緊張した面持ちで見つめている。しかしここまで来て、ロッシュは逃げ出したくなってしまった。そもそもそこまで真剣な話ではないのだ。どう話したものか。
「えーとその、まあなんだ。最近妙に気になってきてな」
 そう言ってロッシュは長く伸びっぱなしの自分の髪を持ち上げた。静寂が続く。
「……何がですか?」
 キールはいまいちその真意がわかっていないらしく、首を傾げている。マルコも似たような表情だ。ストックは先ほどからあまり表情を変えていないが、これがストックなりのわからない主張なのかもしれない。
「あーだから、髪だよ髪! 最近生え際が気になるんだよ」
「…………」
 一瞬の間があった。そして各々が理解したのだろう、微妙な空気が流れる。その反応はロッシュの想定内のことで、だからこう切り返した。
「おまえら、自分とは無縁だと思ってるだろ」
「え」
 ロッシュが低い声で言うと、キールやマルコがしどろもどろになった。
「そ、そんなことないですよ。自分だってそのうち、その」
「僕だっていつかは」
「ストック、おまえだって例外じゃねえんだからな」
 ロッシュはじろりとストックを睨み付けた。
「特におまえの場合、身近に実例が」
「あ」
 思い付いたようにマルコがその人の名前を挙げようとしたがその口は途中で閉じられてしまった。今は大陸の礎となったが、かつてストックやマルコの上司だった男。ストックの血の繋がった叔父。
 彼は時を移動できる書を使い何度も時間移動を行ったせいで、実年齢以上に身体は老けていた。その彼の頭髪はどうなっていたか。ロッシュやマルコの頭の中に、過去に何度も見た彼の姿が再生される。
 ロッシュとマルコの視線がストックに集まる。ハイスのことを知ってはいるものの詳しい事情を知らないキールはストックとロッシュの顔を交互に見比べている。ストックは未だに微動だにしていないが、うっすらと汗を掻いているように見えた。
「ともかく、おまえらだって安泰じゃねえんだからな。気を付けるにこしたことはねえ」
「た、確かに」
「でも、具体的には何をどうすれば」
 正直なところ、それはロッシュにもわからない。対策などあるのか、対策してどうにかできるものなのか。
「それがわからんから困ってるんだろ」
「は、そうですよね……」
 質問したキールが恥じ入ったように黙り込む。ロッシュは考えながら一同を見回し、マルコの方を向いた。
「しかしマルコ。おまえは帽子じゃねえか」
「え、僕ですか」
「ああ。おまえ、いつも帽子被ってるだろ。今日は被ってねえが」
「ええ、今日は隊員たちと顔を合わせることもないから、良いかなと思って……」
「あれ、良くないんじゃないか」
「ど、どうして」
 今日は身に付けていないが、マルコは特徴的な帽子を良く被っている。ロッシュは難しい顔をしてマルコを見た。
「帽子被ってると汗掻くだろ」
「蒸れるわけか」
「確かに良くはなさそうですね……」
 三人がそれぞれ物騒なことを言うので、マルコは一気に不安になった。
「じゃ、じゃあどうすれば」
「マルコ、おまえそれを止める気はないのか」
「え、ええ……愛着ありますし」
 あの帽子はかなり前から身に付けているものだ。明日から被らない、と言うのも落ち着かない。そんなマルコにストックが助け舟を出した。
「それならたまに脱ぐ、とか、被る頻度を減らす、という手もある」
「でも、マルコさんの帽子は左右に通風孔みたいなのあるじゃないですか」
 キールもストックに続き、必死にマルコの帽子の弁護を試みる。
「一般的な兜や帽子よりも風通りはいいんじゃないですか!」
「まあ確かにそうだな。歩兵が使ってるヤツよりは良いかもな」
 アリステルの一般兵たちが使っているのは頭蓋骨を保護する頑丈なものだ。強度命のため、それなりに重いし通風孔もない。それよりはマルコの帽子の方が風通りは良いのだろう。
 マルコは大きくため息を吐き、書類を持つ手をだらりと下げて項垂れた。
「今までそんなこと考えもしませんでしたよ……」
「俺だってそうだぞ。最近妙に気になるだけでな」
「…………」
「なんだ、ストック。何か言いたそうだな」
「いや、何でもない」
 ストックはわざとなのかロッシュから視線を外し、思い出したように手に持った書類をロッシュの机の上に置いた。
「とりあえず判を頼む。急ぎなんだ」
「あ、僕も」
 ロッシュが書類を処理している間、キールも自分の席に戻った。ストックとマルコは黙ってロッシュが判を押してくれるのを待つ。終わりそうな頃合になって、執務室の扉がこんこんと叩かれた。
「ロッシュいるかい」
「首相!」
 扉から現れたのはアリステル現首相のラウルだ。戦争直後の混乱からある程度の時は過ぎたが、未だ首相の地位に座り続けている。それだけ彼の政治手腕は安定しているのだ。しかしそれはともかくとして、この流れでの訪問は部下たちの視線を集めることになった。
「何だい、皆そろって」
 それぞれの視線がラウルに一点集中し固まる。
「……僕の顔に何かついてるのかな」
 ラウルが手にしていた書類を脇に挟み、もう片方の手で頬を触る。さらに鼻と続き、前髪に触れたところで、ロッシュは弾かれたように立ち上がった。
「い、いえ何でもありません! 失礼しました!」
 それにつられてマルコとキールも姿勢を正す。
「なんか様子がおかしい気がするけど……まあいいや。それよりも再来週の演習の件なんだけど」
 ラウルはロッシュと再来週の予定の話を少しして、十分ほどでロッシュの執務室を後にした。扉が静かに閉まり、暫くすると誰からともなくため息が漏れた。
「首相は安全だな……」
「そう、ですね」
「何を食べたらあんなに……その失礼ですが、あんなにふさふさでいられるんでしょう」
「……キノコかもしれない」
「それって髪型じゃ」
「いや、案外的を得ているかもしれんぞ」
「キノコって栄養あるだろうからな。髪にも良いのかもしれない」
 かなり失礼なことを言い合っていると、きぃぃとかすかに扉の軋む音がした。見ると、扉の隙間からラウルの片目が覗いている。
「なるほど、そういう話だったか」



「各班の割り振りは以上だから、皆気を引き締めて取り掛かるように。じゃあ解散!」
 翌日、近々控えたグランオルグとの合同演習のためマルコは訓練所に部下たちを集め、指示を出していた。その後の細々とした用事を済まし食堂に向かおうとすると、部下の一人と一緒になった。先ほどの指示についていくつか質問され、それに答える。話が終わると最後に、珍しいですね、と部下は切り出した。
「え、何が」
「いえ、今日は帽子を被っていらっしゃらないなと」
 部下の何気ない言葉にマルコはぎくりとする。
「あ、ああそれはね、最近暑いからさ」
「今はもう秋を過ぎて冬になろうかという季節ですが」
「えーとほら、たまには気分を変えたくてね」
「は、なるほど」
 そんな答えで本当に納得したのかわからないが、失礼いたしました、と部下は丁寧に謝り礼をして去っていった。マルコはその背中をなんとも言えない気持ちで見送る。
 確か彼はこの間配属されたばかりの新人隊員だ。新人の割には状況を見定める洞察力もあり、中々良いものを持っている。未来はどうなるかわからないが、こういう人材を育てていくのもマルコの道である。頑張らなければ。
 そう思ったマルコの手は、自然と己の髪の毛を撫でていた。






平上作
2013.11.03 掲載

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