戯言、密事
曝された白い肌に、円形の金属が押し当てられた。ひやりとした感触が、肌を探って動かされるうちに、体温と同じに温んでいく。温度が近づき、しかし固さだけは異物感を主張し続けるそれが、ビオラの胸の上を、滑るようにして動いていく。それから伸びた管を耳に当て、真剣な面持ちで診察を行うソニアを、ビオラもまた生真面目にじっと見詰めた。
普段は隙のない軍服か鎧を着用し、顔以外の皮膚などほんの僅かにも見せることのないビオラだが、今ばかりは硬さを脱ぎ捨てた無防備な姿をしている。着衣の前をはだけて、まろやかな曲線をさらけ出した光景は、主治医であるソニアだけに許されるものだ。万が一の事故を防ぐために、ビオラの診察は個室で、扉に鍵をかけて行われていた。アリステル軍、いや国民全体から憧憬を抱かれる女神の素肌など、みだりに人目に曝して良いものではない。
「……良いですね。大分、健常な状態に近くなってきています」
ソニアがにこりと笑い、聴診器をビオラの身体から離した。これで診療は終わりだ、触れる物の無くなった肌を隠すため、ビオラは肌着を着直し服の前を合わせた。固く引き締まった筋肉に覆われた身体の中、数少ない柔らかさを残す膨らみが、堅苦しい着衣の中へと仕舞い込まれた。
「そうか。それは良かった」
「ええ、本当に。ビオラ将軍が頑張ってくださった結果です」
「私は何もしていないさ、ソニア先生や医療エリアの皆の力だろう」
戦中に得たビオラの病、手遅れに至る寸前までいっていたそれの進行を引き留めたのは、間違いなく彼らの功労だ。勿論ビオラとて、己の身体を治癒するために、出来ることは全て為している。しかしそれはあくまで受動的なもので、適切な対応を指示し続けてくれたソニアの存在が無ければ、こうして回復に向かうことは無かったと言い切れた。
しかしソニア自身はそれを誇るでもなく、ただ回復への喜びだけを瞳に宿らせ、ビオラを見詰めている。
「そんなことはありません、治療に協力的でない患者さんは、いくらでもいらっしゃいますよ。ビオラ将軍のように、素直で聞き分けが良い方だから、こうして快方に向かうことが出来たんです」
「素直と言っても、大したことはしていないんだがな。医者は美人で優しいし、薬が苦くて飲めないという年でも無い」
冗談のように言って肩を竦めてみせると、ソニアがまた朗らかに微笑みを零した。
「そうですか? それじゃあ次は、うんと良く効く苦いお薬を用意しましょうか」
「おや、恐ろしいことを言ってくれるな。ふふ、覚悟しておこう」
そんな、意味など持たぬ暖かい戯れ言を交わしながら、互いに身支度を整えていく。医療器具が立てる微かな金属音が、静かな部屋に響いた。
「しかしどうだろう、経過が良いなら、もう少し仕事を増やすことも出来るだろうか」
ビオラの問いかけに、ソニアの瞼が瞬く。現在ビオラは病を癒すため、その仕事量と内容を、大きく制限されてしまっていた。軍の総大将という地位に就いている彼女だから、それによって周囲にかける迷惑は相当に大きい。同じく要職にあるラウルやロッシュ、そして部下の者達の献身的な協力により、どうにか軍の運営が成り立っている状態であった。
「勿論前線に出るとは言わない、だが座り仕事であれば、さほどの負担にはならないと思うんだが」
「そうですね」
ソニアが真剣に考え込む、年若さを感じさせない頼れる医者の黙考を、ビオラはじっと見守る。
「……確かに、身体を慣らし始めることも必要かもしれません。少しずつ、無理のない程度に普通に生活に戻していければ」
「では、構わないんだな?」
「少しずつなら、ですよ。絶対に無理をしないこと、検診で少しでも異常が見つかったら、直ぐに今と同じに戻して貰いますから」
きっぱりと言い切るソニアに、ビオラも逆らわず頷いた。彼女は厳しいが、それも全て患者の身体を考えてのことだと、ビオラも分かっている。だからこそ、将軍職を勤めながらの闘病生活も、耐えることが出来るのだ。
「やれやれ、元のように仕事が出来るのは、いつになるかな」
「焦らないでください、確実に快方には向かっているんですから。今無理をして悪化させてしまっては、今までの頑張りが全て無駄になってしまいます」
子供のように宥められ、優しい手で背を撫でられて、ビオラはたまらず苦笑を零した。一国の軍を統べる将軍に対して、何とも大胆な態度だが、それを当たり前にやってのけてしまうのがソニアという女性の凄さなのだろう。彼女はビオラの半分程の年しか生きていないというのに、不思議と包み込むような安心感を与えてくれる。
しかし、それに素直に甘えられないのもまた、年上の者としての自然な感情だ。整った唇を、ついと皮肉げな笑みの形に変えた。
「だが、そうのんびりともしていられないだろう。新婚家庭の夫君を、新妻から奪ったままでは居られないからな」
からかい混じりの言葉に、新妻その人であるソニアは、頬に朱を閃かせる。しかし直ぐに冷静な微笑を取り戻し、ビオラに向けて小首を傾げた。
「お気遣い有り難うございます、ですがそれより、ビオラ将軍のお身体の方を優先してください」
「おや、良いのかな? そんなことを言って」
目を丸くしたビオラの驚きは、半ばばかりは本当のものだ。彼ら夫婦の仲睦まじさは有名だし、夫の激務をソニアが心配していることも、近くにいるビオラであれば良く知っている。医者としての責任感からそんな発言が出たのかとも考えられるが、ソニアの顔を見るに、義務感だけのものとも感じられないのが不思議なことだ。
「私が治っても、ロッシュ将軍が身体を壊してしまっては仕方がないだろう」
「それは勿論そうですけど」
その瞳には、確かに多忙な夫に対する心配があるのだが、同時に深い信頼もまた存在するようだった。にこりと、たおやかながらも折れない強さを含んだ笑みを、ソニアが浮かべる。
「あの人の健康は、私がしっかり管理しますから。調子を崩すようでしたら、腕尽くでも休ませてやります」
「……おやおや、厳しいことだ」
それと対照的な苦笑を浮かべて、ビオラが呟いた。軍で第二位の地位に就く鉄腕将軍相手に、腕尽くなどという強硬策を採れるのは、ヴァンクール大陸広しと言えども目の前の女性だけだろう。
しかしソニアは、当たり前だが、夫を蔑ろにする恐妻というわけではない。むしろロッシュのことを誰より大切に思っているのは彼女である、そのことを示すかのように、ソニアは微かに表情を曇らせて小さな溜息を吐いた。
「――私も、本当はもう少しくらい、休んで欲しいんですけど」
そこにあるのは、職業を離れた、一人の女性としてのソニアの本音だ。伏せられた視線には淡い憂いが陰っており、微かに揺れる茶の瞳に、ビオラはつかの間目を奪われる。
「でも、あの人自身が望んでやっていることですから。横から止められるものじゃ無いんです」
そう言ってもう一度溜息を吐いた、そこにあるのは諦めの色だが、不思議と暗いものではない。自分の身体よりも仕事を、そして彼の働きにより救われる人々のことを選ぶ夫のことを、彼女は本当に愛しているのだろう。
「羨ましいな」
ぽろりと、ビオラの唇から想いが零れた。ソニアははにかんで微笑み、そして冗談めかしてビオラを軽く睨む。
「駄目ですよ、もう私の夫なんですから。誘惑しないでくださいね」
その言葉にビオラは一瞬目を丸くし、次いで吹き出す勢いで笑いだした。
「違う、違う。ソニア先生に言っているのではないよ」
「え?」
きょとんとするソニアの手をすっと取り、彼女の目を真っ直ぐに見詰める。
「ロッシュ将軍が羨ましいと、そう言いたかったんだ。貴女のような妻が居て」
「まあ、将軍ったら」
からかわれているとでも思ったのか、ビオラに手を預けたまま、ソニアは楽しげに顔を綻ばせる。花が咲くようなその笑顔に、ビオラも笑みを返した。
「本当さ、私が男だったら、奪って自分の妻にしたいくらいだ」
「もう……冗談はやめてください」
ついと、顔と顔との距離を詰めて、間近で瞳をのぞき込む。女神という呼称が大げさに感じられない程整った顔立ち、それに極近く迫られ、ソニアの頬が赤く染まった。困惑と、もしかしたらそれ以外の感情を纏って、慎ましく視線が伏せられる。
「冗談では無いよ」
その顎を取り、優しい強さで顔を上げさせ。そしてそっと、ソニアの唇に、自分のそれを触れさせた。
「ロッシュ将軍には、内緒にしておいてくれ」
そして止めとばかりに、とっておきの笑顔を送れば、ソニアは可哀想な程真っ赤になってしまう。言葉も紡げぬ程狼狽えた彼女の姿は、あまりに珍しく、そして何とも可愛らしいものだった。
「え、え……ビオラ将軍!」
「ははは、女に産まれたのが残念だよ」
「……将軍!」
悲鳴混じりの叫びを受けて、ビオラはようやくソニアの身体を離して、途中だった身支度を続けるため着衣に手をかける。
「では、仕事に戻らなければな。一緒に居られないのは寂しいが」
「……もう。本当に、からかわないでください」
ソニアの頬に上った血は未だ戻らずにいたが、しかしそれ以上の追求はせず、彼女もまた器具の片付けを再会した。冷静さを欠いているのか、先程よりも少しだけ大きな音を立ててそれらを仕舞いながら、潤んだままの瞳でビオラをちらりと睨む。
「次の診察では、思いっきり苦いお薬を用意しておきますからね」
そして愛おしい顔で、そんなにも可愛らしいことを言うものだから、ビオラも耐えきれず破顔してしまい。
「覚悟しておこう」
滅多にない程機嫌良く笑う戦女神に、ソニアは何を思ったのか、その頬をまた赤く染めるのだった。
2012.04.01 セキゲツ作
Back