無邪気な守護者
アトの足は速い。
クラスの中だけではない、学年全体でも、彼女の足に敵う者は誰もいない。男子を含めてもそうだし、上の学年まで範囲を広げたところで、精々数人程度が僅かに勝る程度のことだろう。彼女はまるで風のように走る、そして今まさにその脚力をもってして、校内を疾走している最中だった。
「きゃっ」
角を曲がった拍子に女生徒とぶつかりかけ、小さな悲鳴が上がったが、それに構う余裕もない。昼間であればとっくに教師が飛んできている、しかし今は放課後で、アトの暴走に気付いている大人は居ないようだった。それを良いことに、アトは誰にも邪魔されることなく、全速力で走り続けている。そしてあっという間に昇降口に辿り着くと、靴を替えることすらせず、上履きのまま外へ走り出てしまった。
とにかく、彼女は怒っていた、そして探していた。その勢いのまま校庭に直行し、広い空間を隅々まで走り回る。
「アトちゃん?」
しかし残念ながら、そこに目的の姿は無かったようだ。納得いくまで走ると、アトは泣きそうな顔で肩を落とし、また別の場所を目指して走り去ってしまった。その様子には、見知った者ですら接触を躊躇わせる気迫があり、校庭で遊んでいた生徒達も呆然と彼女を見送るばかりだ。
「……どうしたんだろ」
首を傾げて呟かれた言葉に、返る答えは無い。そして見続けたところでそこに回答があるわけではなく、やがて子供達は疑問を仕舞い、自分達の遊びへと戻っていった。
――――――
学校中を走り回り、やがて訪れた校舎の裏で。アトはようやく、探していた人物を見付けることが出来た。
「リプティ!」
近づくより速く発せられた大声に、少女は驚いた様子で振り向く。放課後だというのに、彼女が着ているのは学校指定の体操服だ、それも酷く汚れている。いや汚れているのは服だけではない、普段の静謐な佇まいは何処へやら、結んだ長い髪からほっそりとした脚まで全身泥と土埃にまみれてしまっていた。
「アト。どうしたので」「リプティ、もう帰るの!」
校舎の端から裏庭の中央まで、驚く程の速さで駆け寄ってきたアトが、リプティの腕を掴む。細い腕に食い込む指に、秀麗な眉が微かに顰められた。
「落ち着いてください、アト」
「リプティは落ち着いてちゃ駄目なの! 何でこんなところで、一人で練習してるの!」
アトはリプティの服についた汚れを落とそうと、ばたばたと体操服を叩くが、塗れた泥の汚れはその程度で剥がれるものではない。むしろアトの手や服にまでこびり付き、汚れが広がるばかりなのだが、それを厭わず叩き続ける。その必死な様子に、リプティもさすがに平静を保ちきれず、困惑の表情を浮かべた。
「……どうして、ここに?」
「教室で皆に聞いたの。こんなの酷いの、リプティだけ駄目なことなんてないの、練習なら皆でするの」
何故こうしてリプティが裏庭におり、体操服などを着て泥だらけになっていて、そして細い手足が傷だらけになっているのか。その理由は、来月開催される運動会、そこで行われる全員リレーにあった。全員リレーは、その名の通りクラス全員が選手となって参加するリレー競技だ。学級に所属する者として当然、リプティもその一員として含まれている――そして、彼女は足が遅い。
それはもう、あまりにも、遅い。
「ですが実際、問題があるのは私一人です。特に多く練習をしろというのは、当然の主張でしょう」
「そんなことないの! 皆のリレーなんだから、皆で頑張れば良いの!」
クラスの中だけではない、学年全体で見ても、彼女の足に劣るものは誰もいない。下の学年まで範囲を広げたところで、ほんの数人が劣る程度のことだろう。歩くのと大差ない速度で進み、さらに数十メートルごとに躓いて転ぶのだから、普通の子供が歩いた方が余程速いという状態である。大人が見れば可愛いとも感じられるが、同年代の子供にとっては、どんくさいとしか言いようのない姿であった。ましてそれが、クラス全体の利害に関係してくるとあれば尚更、好意的になれる筈もない。
「ですが、それでは彼らは納得しないでしょう」
「知らないの! 皆もう帰っちゃったの、それなのに……」
だが、リプティが自主的に練習を行っているのであれば、アトも今のような反応はしていない。共に練習するのだと押し掛けたかもしれないが、怒ることはけして無かっただろう。彼女の特訓がクラスの者達によって強要されたものだからこそ、彼女はこうして怒り、感情が昂るあまり泣きそうにまでなっているのである。リプティの、さらりとした長い髪に付いた泥を、アトはその手で一生懸命に拭った。
「リプティ、一人で練習なんてしちゃ駄目なの。皆の言うことなんて聞くことないの」
「ですが、跳ね退けると後が面倒です。言う通りに練習して、それで怪我でもしておけば、彼らも罪悪感で黙ってくれるでしょう」
「駄目なの! 転んだら痛いのはリプティなの!」
「一時の痛みくらい、どうということはありません」
実際、彼女の手足には既に、血が滲むいくつかの痕が刻まれている。うまく走れない彼女が何度も転び、その度に得た傷だろう。ちらりとそれらを見やり、リプティが肩を竦める。
「まあ、この程度の傷では、大した印象を与えないでしょうが」
傷が浅いことが残念だとでも言いたげな所作に、アトの怒りがまた一段と高まった。幼い顔に精一杯の憤りを浮かべ、リプティのことを睨みつける。
「どうしてそんな怖いこと言うの! そうだ、ティオは、ティオは一緒じゃないの?」
「ティオですか、彼は他の生徒に連れ出されてしまいました。私の邪魔をしないようにと、そういうつもりなのでしょう」
双子である彼らはいつでも共に行動しているが、今回の計画において、それは不都合だったのだろう。放課後になった途端半ば強引に姉から引き離され、恐らくは何処かで足止めされている筈だと、リプティは予想しているようだった。実際、今になっても姿を現さないのだから、その推測は大きく間違ってはいないのだろう。
「――役立たずなの」
「そう言わないであげてください、アト。ティオ一人で複数人を振り切るのは難しい」
たった一人の弟を役立たず呼ばわりされて、さすがにリプティも放ってはおけなかったのか、優しく庇う言葉を口にした。
「それに悪くすれば、彼にも特訓とやらが強いられている可能性はあります。心配をするなら、彼の方にも向けるべきです」
「ティオは良いの、男の子だから」
しかしその姉心も、怒れるアトには全く通じていない。ふくれっ面を崩そうとせず、性差別とも取られかねない発言で、ティオの危機をあっさりと切り捨てる。
「リプティ、アトと一緒に帰るの。もうこんなことしちゃ駄目なの」
「そういうわけにはいきません、次の体育でタイムに向上が見られなければ、彼らはまた同じように私を責めるでしょう」
子供は残酷ですから、と自分も同じ年であるにも関わらず、教師よりももっと大人びた顔でリプティが呟く。
「二度目とあれば、さらに行為が過激になる可能性は高いです。そうならないよう、彼らの心を戒めておかねばなりません」
「えっと……でも、リプティが怪我しちゃうのは駄目なの!」
リプティの難解な言葉全てを理解することは出来なかったが、とにかく彼女が自分の身体を痛めつけようとしていることだけは伝わってきて、アトは泣きそうになりながらリプティに抱きついた。
「アト、汚れますよ」
リプティの忠告も耳に入れず、いやいやをするように首を振って、回した腕を強める。
「大丈夫、リプティはアトが護るの。皆が酷いことしたら、アトが許さない」
「しかし、数の暴力というものがあります。クラスの大多数と対立しては、あなたが孤立してしまう」
「それならリプティが一緒に居てくれれば良いの。アトは、リプティが居ればそれで良いの」
純粋な、他の全てを切り捨てかねない程純粋な想いをぶつけられて、リプティが瞳を瞬かせた。
「……全く、あなたは」
整った唇から、溜息が零れる。深い接触に慣れていないのだろう、微かに身を震わせて、長い睫を伏せた。
「それを言う相手は、私ではないでしょうに」
そして、何処か遠くを見る様子で、視線を宙に泳がせる。幼く見えるその目に、映っているのは何なのか。ぎゅうと抱き締めたまま離れようとしないアトは、リプティのそんな表情に気づきすらせず、ひたすら友人を説得することに集中してしまっている。
「リプティ、帰るの。リレーなんてどうでもいい、そんなの気にしなくて良いの」
「あなたは気にせずとも、皆が気にするでしょう」
「それなら、アトがうんと速く走れば良いの。そうしたら、リプティが遅くても一番になれるの」
名案だとばかりに顔を輝かせ、アトは腕を解くと、リプティの手をぎゅっと握った。
「だから帰るの、ね?」
満面の笑みでそう言いきれば、リプティもついに根負けして、呆れ混じりの苦笑を零した。それを見たアトは、一層笑顔を晴れやかにし、友人の手を取って歩き出す。
「アトのおうちに行こう、泥だらけになっちゃったから、一緒にお風呂に入るの」
「……いえ、それは遠慮しておきます。自分の家で」
「駄目なの! 一緒に入るの」
ご機嫌なアトに引き摺られるようにして、リプティも歩いていく。無邪気で我が儘な友人の希望を退けるのは、数百年の記憶を持つ少女にとっても、困難な事項なのだろう。
そして。
「……僕のことも、思い出して欲しいんだけどね」
校舎の陰で、少女達が立ち去るのを見送りながら。
完全に蚊帳の外に追いやられたティオは、深い深いため息を吐いて、肩を竦めた。
2012.04.01 セキゲツ作
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