わたしのおうじょさま



窓から入る風を受けて、カーテンが翻っている。一見ただの白い布に見えるそれに、一面素晴らしく繊細な刺繍を縫い込まれていることを、レイニーは少し前に気づいた。僅かに光沢を持つ布と糸を使っているようで、風で踊る度に、虹色の輝きが表情を変えて現れる。城下であれば、あれ一枚で一家族が半年暮らせる代物だろう、レイニーは密かに感嘆の息を吐いた。
勿論、高価なのはカーテンだけではない。何しろここはエルーカ、100年を越える歴史を持つグランオルグ王家の第一王女、そして今はただ一人残った王族として女王の地位についている女性の私室なのだ。手の届くところ、届かないところ、何を取っても目が回るような贅沢品で埋め尽くされている。産まれたときから庶民として暮らし、成長して後は傭兵として身を立ててきたレイニーにとっては、もはや羨ましいという感覚すら失せるような環境だ。むしろこんな高いものに囲まれていては、落ち着いて生活できないのではと、そんな心配すら出てきてしまう。
「――レイニーさん?」
一瞬の物思いを、聡いエルーカは見逃さなかったらしい。心配そうな声音に、レイニーは慌てて、隣に座った女王へと向き直った。
「あ、ごめんごめん。ちょっとぼーっとしちゃって」
「大丈夫ですか? 行軍の疲れが残っていらっしゃるのでは」
レイニーがグランオルグにやってきたのは、軍の任務でのことだった。グランオルグの式典に参加する首相と将軍のお供に、レイニーの隊が任命されたのだ。隊を率いての移動だから確かに行軍ということにはなる、しかし魔物討伐のように一刻を争う遠征ではないため、移動は比較的緩やかなものだった。今回は首相が同行しているから尚更のことで、この程度で疲れたなどと言っていては、ひとつの部隊の隊長は務まらない。グランオルグに到着したのは昨日のことだが、一晩休めば、疲れなど完全に取れてしまっている。
しかしエルーカには軍人の感覚など分からないのであろう、やはり心配を拭えない様子で、レイニーに気遣いを込めた視線を注いでいる。彼女に余計な心労を与えぬよう、レイニーはぶんぶんと手を振った。
「ううん、そんなことないよ、大丈夫。ラウル首相のペースに合わせたから、随分ゆっくりだったしね」
「そうですか、それなら良いのですが。無理をさせてしまっていたら、申し訳ありません」
「大丈夫だって! 大体、隊の皆を率いているより、エルーカ女王の部屋に居る方がよっぽど休めるもん」
必死にまくし立てるレイニーの様子がおかしかったのか、それとも本当に疲れが無さそうだと判断したのか、エルーカが柔らかな微笑を零した。
「良かった。それなら、ゆっくりしてくださいね」
「うん、有り難う。エルーカ女王こそ、大丈夫? 式典の準備で、忙しいんじゃないの」
レイニーがグランオルグに来たのは軍の任務だが、こうして女王の部屋で茶を振る舞われているのは、仕事とは全く関係が無い。女王ではなく個人として話がしたいと、エルーカ自身から招待を受けたのだ。遠征中なので一応常に仕事中ではあるのだが、将軍から特別に許可を貰い、共に時間を過ごしていたのだった。
「大丈夫です、私の準備は済んでいます。後はオットー達に働いてもらうだけなんです」
悪戯っぽく笑うエルーカだが、その忙しさはレイニーの比ではない筈だ。グランオルグを導くため全ての責務を背負った彼女の多忙は、文字通り寝る暇も無い程と聞いている。
「それに、折角レイニーさんが来てくださっているのに、お話出来ないのは寂しいですから」
「そ、そう? ありがと、何か照れちゃうけど」
いや、むしろ多忙だからこそ、こうして穏やかな時間を過ごしたいのかもしれないが。グランオルグの国民にとって、エルーカは女王で、自分達の国を導く希望の星だ。彼女がただの少女として振る舞うことが許される相手は、少なくともこの国の中には、一人も居ない。その点レイニーはグランオルグの民ではない、それに政治の世界からも遠く、さらに言えばあの戦いで共に長い時間を過ごした仲でもある。レイニーであれば、利害や立場など関係なく、女王の重圧を脱ぎ捨てることができるのだろう。
そしてもう一つ、エルーカがレイニーと話したがる、大きな理由がある。
「それに、お兄様のことも、聞かせて頂きましたし」
レイニーは、エルーカが知らないストックのことを知っているのだ。彼女はアリステルで情報部員をしていた頃のストックと、共に過ごしている。それはほんの数ヶ月にすぎないが、兄が姿を消している間に何があったのか、少しでも知りたいというのは自然な願いだろう。
「うん、でもゴメンね、あんまり大した話が出来なくて」
「そんなことはありません。お兄様がどのように生きてこられたか……知ることが出来て、嬉しいんです」
そう言ってエルーカは首を振るが、実際レイニーが知っていることなど、極限られている。いくつかの任務を共にしたが、当然ながらそれは全て仕事の上でのことで、ストックの私生活に触れたことは全く無い。
「そう……それなら、良かったけど」
「はい。本当に、有り難うございます」
だがそれでも、エルーカの笑顔は輝かんばかりに明るく、心から喜んでくれているのがレイニーにも伝わってくる。本当に兄のことが好きだったのだろう、そう思うとレイニーの胸に、締め付けるような痛みが刺した。
「あ、あのさ。今度将軍さんに、ストックの話、聞いておくね」
「ロッシュ将軍にですか?」
「うん。あたしよりずっと前からストックと知り合いだし、それに親友だって言うんだから、色んなこと知ってると思うんだ」
本当はエルーカ自身がロッシュと話せれば良いのだが、一国の女王ともあろうものが、男性と二人で自室に篭もるわけにはいかない。それならばレイニーが話を聞いておけば、例え伝聞であっても、きっとエルーカは喜んでくれるだろう。いや、そう言った時点で既に、エルーカの頬にはぱっと赤みがさしていた。
「本当ですか?」
「勿論だよ、任せといて」
「……有り難うございます、レイニーさん」
余程感動したのだろう、エルーカはレイニーの手を取り、胸元に寄せて握りしめた。レイニーは驚いて身を竦ませるが、抗うことはせずエルーカのするがままに任せる。武器を扱うレイニーの手は堅い、それに絡むエルーカの指のか細さに、しみじみとした感慨を覚えた。
「エルーカ女王も、一人で大変だもんね。あたしも、力になるよ」
「レイニーさん……」
「あはは、でもあんまり、出来ること無いかもだけどね。まだ下っ端だし」
「そんなことはありません!」
ぎゅ、とエルーカの指に力が込められる、この細い指で彼女は一人戦ってきたのだ。志を共にする仲間は居ても、本当に心を許して甘えられる相手は無い、そう考えるとエルーカがまるで幼い妹のように感じられてくる。あるいはそれは、レイニーを見るエルーカの目が、それこそ姉を見るように素直な好意に満ちているからかもしれない。自分に対してこんなにも好意的な人物に、悪感情など抱ける筈も無い。
「そう言ってくださるだけで、私は……」
「そ、そっか。それなら良かった」
宝石のように美しい、微かに潤んだ空色の瞳に見詰められ、レイニーは知らずに頬を熱くする。緊張にか、妙に高鳴る心臓を誤魔化すように、にこりと笑みを浮かべる。
「ストックの代わりに、っていうには、ちょっと頼りないけど」
「そんなことを仰らないでください、レイニーさんはレイニーさんです。兄の代わりにしたいわけではありません」
「……そっか。そうだよね」
彼女にとって、愛する兄の代わりになる人物など、何処にも居ないのだ。だがこうしてレイニーが居ることで、少しでも寂しさが紛らわせると言ってくれる、それならば出来るだけ傍に居てやりたい。
「じゃあ、私で良かったら、いつでも相手になるから。いやえーっと居るのはアリステルだけどさ、遊びにくるよ、それに何かあったら直ぐ飛んでくる」
「……レイニーさん!」
エルーカの目が大きく見開かれた、と思った瞬間、柔らかい感触が身体の前面に押しつけられる。間近で揺れる金色の巻き毛に気付いて、思い切り抱きつかれたことを理解した。
「嬉しいです、そんな風に言ってくださるなんて、私……」
「あ、えーっとうん、勿論じゃないのさ」
ふわりと揺れる髪から何やら甘い香りがして、同性であるにも関わらず感じてしまう気恥ずかしさに、レイニーの視線が泳ぐ。華奢な身体にきつく抱き締められ、伝わる体温に頬が上気した。
「その、エルーカ王女、じゃなかった女王」
「エルーカで良いです、エルーカと呼んでください」
「え、えーっと……じゃあ、エルーカちゃん」
「はい!」
ひたすら慌てるばかりのレイニーだが、エルーカの表情はどこまでも嬉しそうで、抵抗してそれを曇らせてしまうことは許されない気がしてしまう。
「その……」
「レイニーさん、またご一緒に、お話してくださいね?
「う、うん、勿論だよ!」
「有り難うございます……!」
そう言ってまた抱き締められる、彼女がこんなに接触を躊躇わない性質だとは知らなかったが、あるいはこれも寂しさの現れなのかもしれない。そう強引に自分を納得させるレイニーの心を、知って知らずか、エルーカの抱擁は強くなるばかりだ。息苦しい程密着した相手の、薄い背をそっと撫でてやりながら、レイニーは仕方がないかと優しい苦笑を浮かべる。それにきっとこれも、ストックが戻ってくるまでのことだ。本当に甘えるべき人を取り戻せば、彼女との距離も、以前と同じに戻ってしまうだろう。
こうして愛情を向けてもらえるのも、今だけの特権なのだ。そう考えれば、友人に対するには少しばかり親密すぎる接触も、愛おしく感じられる気がする。
「式典が終わったら、またご一緒しましょう。沢山、お話ししいたいことがあるんです」
そしてにこりと、それこそただの少女のように微笑むエルーカに、レイニーは姉のように優しく微笑んでやった。

――レイニーが考えた未来が、その通りに実現するかどうか。

それが分かるのは、もう少しだけ後の話。





2012.04.01 セキゲツ作

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