女王と王女
その日、グランオルグ王宮は大勢の人で賑わっていた。
今日はグランオルグ上級貴族の定例晩餐会兼舞踏会だ。これは毎週一度、必ず開かれている。
グランオルグの財政は悲鳴をあげ始めて久しい。庶民の間には餓死する者まで出ているというのに、上流階級に属する貴族そして王族の人間には余り関係が無い。
一般市民に与えるものが無いだけで、王族にはまだ潤沢たる資金があるのだ。
その名を税金、血税と言う。
現グランオルグ女王プロテアが許しても、グランオルグ王女エルーカにそれが許せるわけがない。
エルーカは前もって不参加の旨を伝えていた。
これから先も参加することはない、と伝えているのだがそれでも毎回従者が聞いてくるのだ。
その度にエルーカの気持ちは曇る。
つまり、従者が伺いにやってくるということは晩餐会が開かれるということだ。
義母プロテアを中心に、今頃は王宮は賑わっていることだろう。
エルーカは手元にあった本を閉じた。
椅子の背もたれに少しだけ体重を預け肘掛に腕を乗せて楽な姿勢になり、しばし物思いに耽る。
今読んでいる本は地下の書庫から持ってきたものだ。
兄代わりになどなれないことはわかっていたが、それに近いことはやりたかった。
もちろん、最初から上手くいくなどとは思っていない。兄と自分では何もかもが違いすぎる。
それでも少しでも、少しずつでも近づいて、そして儀式を行わなければならない、自分一人の力で。
果たして本当にできるだろうか。その疑念は常にエルーカの頭の中にある。
だが、やらねばならないのだ。やらなければ大陸が死んでしまう。
それだけは阻止しなければならない、絶対に。
そのためには何をしなければならないのか、エルーカにはわかっている。
既にレジスタンスとは接触している。レジスタンスの仲間たちはエルンストが懇意にしていたせいか、エルーカの加入を非常に喜んでくれた。
彼らは実に良く働く。エルーカに期待しながらもエルーカの身を心配してくれる。
期待が重いかと言われれば、エルーカはいいえと答えるだろう。
彼らはそれだけのことをしてくれている。
エルーカはそこで身体を起こした。背筋を整え、再び本に向かう。
彼らの期待に応えるためにも、立ち止まってなどは居られない。
今はひたすら知識を蓄え、やるべきことをやるだけだ。
エルーカが再び本を読み始めたところで複数の足音が聞こえてきた。
「……誰ですか。誰も入れないでと言っていたはず!」
エルーカは扉に向かい、鋭い声を発した。
「いえっそれが」
衛兵たちの戸惑う声が聞こえてくる。衛兵がいるということは賊ではないはずだ。
仕方なくそっと扉を開け、そこに見えた人影にエルーカは一歩退いた。
「お義母さま!」
そこにはプロテアが卑屈な笑みを浮かべて立っていた。
「どうされたのですか、今は舞踏会のお時間では……」
エルーカは慌てた。エルーカの部屋にプロテアが尋ねてくること自体が珍しいことではあるが、特に今日は晩餐会と舞踏会が開かれているのだ。
その会を中座してまでエルーカのところへ来ることなど到底考えられない。
「下がって良いぞ」
「はっ」
プロテアは衛兵を下がらせた。
これで部屋にはエルーカとプロテアの二人がいるだけだ。
「もしかして、会で何かまずいことでも…」
そう考えることしかできなかった。それだけ、プロテアはこの王女を徹底的に毛嫌いしているのだ。
そんな人間の部屋を尋ねてくるなど、余程のことでもない限りしないだろう。
しかし、エルーカの考えそうなことなど予想済だったのだろう、プロテアが口元に皮肉げな笑みを浮かべて言った。
「そなたはそういうことしか考えられぬのか」
「お義母さま…」
「ふん、大体わらわはおまえの母などではない。それは一番おまえがわかっておろうに、それしか術がないとはな。何とも皮肉だのう、そう思わぬかエルーカよ」
そう言って、プロテアは笑った。滑稽じゃ、と。
「…そうですね」
苦々しい思いでエルーカも頷く。
形だけの義母であり、また、国を護るべき立場にありながら税を己のためだけに使う愚かなる女王プロテア。
貴方はいつからそうなられてしまったのですか。
ふいにエルーカはそう聞きたくなってしまった。
プロテアの生まれは貴族などではない。ただの平民だ。
エルーカの父、前グランオルグ王のヴィクトールが見初めたと聞いている。
確かに今は着飾っているから当然のように美しい。
決して元の顔が悪いわけではないが、これらの装飾品を全て取り払った時のプロテアがどのような顔をしているのか、エルーカは知らない。
エルーカだけではない、侍女以外に知っている者がいるのだろうか。
いや、侍女にもそんな姿は見せていないかもしれない。
平民の貴方が何故、このようになってしまったのですか。
国のこと、国民のことなどどうでもいいのですか。
お義母さま、今の貴方はこれで本当に幸せなのですか。
浮かんだ疑問など口に出すことはできない。
代わりにエルーカは当たり前のことを口にした。
「お義母さま、何か御用がおありだったんじゃないでしょうか」
「用がなければ来てはならんのかえ。わらわも嫌われたものじゃの」
「いえっそういう意味では」
エルーカは慌てて否定する。するといきなりプロテアは手を伸ばし、エルーカの顎を掴んだ。
「な、」
ふ、と鼻で笑いつつプロテアはエルーカを案外強い力で引き付ける。
「今や、そなただけがあの方の忘れ形見、か」
プロテアは強い眼差しでエルーカの瞳を覗き込んで言った。
エルーカに聞かせるための言葉ではなかったのだろう、その呟きはいつもの驕り昂った声ではなかった。
エルーカが咄嗟に目を背けると、プロテアは口の端を持ち上げて手を離し、エルーカに背を向けた。
「……ときに、そなたは夕餉は済ませたのかえ」
「え」
思ってもいない問いに、エルーカは戸惑ったが、プロテアは横目で睨んでくる。
「どうなのじゃ」
「いえ、今日は…」
少し前まで、晩餐会兼舞踏会がある日はエルーカが断ってもエルーカ分の料理は作られていた。
それが部屋に持ち込まれていたのだが、到底そんな料理を食べる気になどなれず運ばせることを止めたのだ。
エルーカ付きの侍女マリィがいるときは彼女が用意してくれるのだが、今日はマリィは急用で城にはいない。
必然と、エルーカは夕食を取っていなかった。
たまにはそんな日もいい。満足に食事を取れない民の気持ちが少しはわかるかもしれない。
そんなことを誰かに言ったら一笑に付されるのだろうが。
「…やはりか」
プロテアが長い息を吐き、次に信じられないことを言った。
「あとで何か持ってこさせる。食べるが良い…安心せよ、毒など入っておらぬし、無意味に豪勢でもない」
「…何故、そこまで」
「わらわにだってわからん」
言ってプロテアは一歩扉に向かって歩き出す。
絨毯敷きでなければ、こつ、と高い音がなったことだろう。
「エルーカよ。一つだけ言っておく、もっと己を…いや。わらわに言う権利はないか」
プロテアは首を横に振り、その先の言葉を飲み込んでしまった。
「そろそろ戻らねば、セルバンがうるさく騒ぐからの」
「…お心遣い、心より感謝いたします。お義母様もどうか、どうかお身体を大事に」
エルーカは義理の母に深々と頭を下げた。
ひょっとしたら、これが初めてのことかもしれなかった。
「ふん、わらわはただ、やりたいことをやるだけじゃ」
そう言い残して、プロテアは去って行った。
後にはプロテアの付けていたきつい香水の匂いが残された。
エルーカは衛兵が軽食を持ってくるまで、そこに立ち竦んでいた。
2012.04.01 平上作
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